先日、友人のK氏から、土のついた野菜が宅配便で届いた。電子メールで、突然の贈り物の次第を確かめると、数年前から、信州に別荘を持ったということだった。週末と夏・冬休みはそこで過ごしているとのこと。その別荘の菜園の分け前にあずかったわけである。野菜を洗いながら、K氏を羨ましく思った。つまり、K氏は都内のアパートと、信州の別荘の二重生活者なのである。
実は今、万葉貴族の生活空間のようなことを考えている。万葉貴族は、いわゆる官僚として、平城京内の「邸宅」に住むことが義務づけられていた。出土する平城京の木簡資料からは、役人の欠勤管理の実態、昇進ための試験勉強のあと、人事考課のありようを知ることができる。つまり、「宅」と「宮」を中心とした都での生活があったわけである。ちなみに、大伴家持を代表とする名門貴族大伴氏は、平城京の東北の佐保に邸宅を持っていた。
しかし、一方で、万葉貴族は、京の外に自らが経営する田圃や菜園を持っていた。それが、『万葉集』に登場する「庄」である。一般には、これを「タドコロ」と読んでいる。『万葉集』をひもとくと、大伴氏の二ヶ所の「庄」が判明する。一つは、「竹田」(奈良県橿原市東竹田町付近)、もう一つは「跡見(とみ)」(同県桜井市外山付近)である。わかりやすくいうと、竹田は大和三山の耳梨山の麓、跡見は山辺道の三輪山の麓ということになる。大伴家を代表する、いや万葉を代表する才媛・大伴坂上郎女(おほとものさかのうえのいらつめ)は、「跡見」のことを「ふるさと」とも詠んでいるから、父祖伝来の領地というような意識があったのかもしれない(巻四の七二三)。
しかし、彼らはこの庄で日常生活を営んでいるわけではない。おそらく、管理人をおいて、庄の管理をしていたはずである。大量の木簡が出土で大きな注目を浴びた長屋王(ながやおう)邸宅の木簡には、王が持っていた郊外の農園の管理人たちの名前を確認することができる。貴族たちは、米や野菜などを、こういった庄から、平城京内の宅に送り込んでいるのである。
さて、『万葉集』によって、大伴家の人びとの生活をウオッチングしてみよう。すると、農繁期には庄に赴いていることがわかる。大伴旅人(おほとものたびと)亡き後、一族の要の人物となっていた大伴坂上郎女も、秋には庄に下向している。おそらく、収穫された稲の管理や、農作業を手伝った人びとの接待、税の支払いのための雑務などがあったのだろう。当時の法律である律令には、五月と八月に「田暇(でんけ)」と呼ばれる農休みを取ることを保証する条項がある。田植と稲刈には、それぞれ十五日間の休みをとることが許されているのである。
しかし、この庄での田舎暮しは、逆に都会生活を懐かしがらせることもあったようだ。大伴坂上郎女も、都を懐かしむ歌を竹田で残している。時に、天平十一年(七三九)、秋のことである。
然(しか)とあらぬ 五百 代小田(いほしろをだ)を 刈り乱り 田廬(たぶせ) に居れば 都し思ほゆ
(巻八の一五九二)
たいして広くもない、一ヘクタールくらいの田の刈り入れをして、刈り小屋のような庄にいると都が恋しく思われる。
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