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生駒山を越えていった人びと

大和恋ひ眠の寝らえぬに こころなくこの渚崎廻に鶴鳴くべしや (巻一の七一)

という歌があります。文武大行天皇が難波に行幸した時に、忍坂部乙麻呂が作った歌ですよね。つまり、平城京に暮らしていた人が、難波に行ったときの歌ですね。難波に泊まっていると、大和が恋しくて寝られないと作者は言うのですね。万葉びとのホームシックの歌です。現在なら近鉄電車で三0分。でも、この時代は、生駒山を越える「日下の直(ただ)越え」という道で、一日かかりました。生駒山を越えると、故郷の大和の山々が見えなくなるのです。そう考えると、古代人の山越えに対する意識がわかりますね。『住吉神代記』の「胆駒神南備本記」には、住吉大神が長柄の泊から生駒山に登り、次のように宣言する場面があります。

  我が山の木実(このみ)、土毛土産(くにつもの)をもて斎き祀らば、天皇が天の下を平らけく守り奉らむ。若し、荒ら振る梟者(ものども)あら  ば、刃に血ぬらずして挙足誅(けころし)てむ。
「我が山」である生駒の山の産物で、御祭りをすれば天下泰平・・・といわば、神様が自己宣伝しているわけですね。つまり、生駒山は神の領有する山だったのです。もちろん、これは住吉大神の側の伝承です。しかし、少なくとも万葉びとは神の領有する空間を通って、難波に行っていたことがわかります。生駒山を、一日かけて自らの足で山越えをして、難波に宿泊した人びと。それが万葉びとなんですね。そう考えると、忍坂部乙麻呂さんの「大和が恋しくて、寝られないよ・・・」という、ホームシックの気持ちも、ご理解願えるかと思います。いや、してあげてください。本日は、ありがとうございました。

  ということで、今年は、読者の皆さんと万葉を語りたいと思います。遇ったときには、気軽に声をかけてください。

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