万葉びとにとって、秋は別れの季節だったようだ。この時代は貴族といえども、農繁期には「庄」(たどころ)と呼ばれる耕作地に赴いて、その収穫に立ち合ったらしいのである。名門貴族である大伴氏の「庄」は、現在の奈良県・橿原市や桜井市にあったらしく、農繁期には平城京(=奈良市)の「宅」(いえ)から、「庄」に一族の誰かがやってきたらしい。電車や自動車がない万葉時代、その距離は遠く感じられたことであろう。わたしの足で、およそ六時間の距離である。滞在は一ヵ月以上であったようだ。この期間、家族は別れて生活をしたのである。
当時の役人は、法律によって春秋の農繁期には、十五日ずつの休みを取ることが、法律によって保障されていた。これを「田暇」(でんか)という。おもしろいのは、役人が休みを一斉に取ると、役所の機能が麻痺するので、二グループに分けて休みを取るように、法律で規定されていることである。しかも、所有している耕作地の立地条件によって、農繁期がずれるので、それを勘案してグループ分けするように、という施行細則まである。
つまり、秋は家族や愛する人と別れて生活する季節だったのである。そんな淋しい夜に、鹿の鳴声が聞こえてくると、鹿は鳴いて妻を呼んでいるのに「私はひとりだ・・・」と、万葉びとは嘆くのである。また、裏返しに鹿が鳴きはじめ、萩の花が咲きだすと、別れの季節が到来した、と実感する。それが、万葉びとの秋なのである。
娘を残して、跡見庄(桜井市市街地東部)にやってきた大伴坂上郎女は、淋しがる娘をさとす歌を残している。おまえさんが、そんなに恋しがっているから、昨夜はおまえの夢を見たよ、と(巻四の七二三)
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