季節と情操
アメリカの大学で『源氏物語』の授業をしたある教授は、虫の音で秋の訪れを感じるという部分を講読したところ、質問ぜめにあったという。虫の「ノイズ」でなぜ、秋と判るのか?・・・と。教授によれば鈴虫の音を風情として捉えるのか、雑音として捉えるのか、文化によって差異があるというのである。特定の音を感知した場合、それが雑音の部類に仕分けされるのか、音楽の部類に仕分けされるのかという違いがあるというわけである。つまり、特定の景色や特定の音と情操とが結びついていると考えねばならないのである。桜の花が咲くと、一升ビンとゴザをもって走りだすという習性がわたしにはあるが、これも特定の景に対する反応とみてよいだろう。
文化の違いと反応差
もちろん、それには文化によって「違い」と「差」があるのである(優劣ではない)。こちらはカナダの大学で教鞭を取っていた別の教授の話。カナダの紅葉は日本の比ではないほど美しいのに、日本人のように紅葉をわざわざ見にゆく人は少ないという。もちろん、紅葉を美しいという気持ちは同じであろうが、反応となる行動は違うのである。つまり、ものを見たり、聞いたりして美しいと思うのは、生後に行なわれたトレーニング(学習)の結果なのである。もちろん、知らず知らずのうちに、学習をしている場合もあるし、意識してトレーニングすることもある。味についても、それはしかりで、わたしには一本千円のワインも、十万円のワインも同じように感じてしまうのだが・・・。
鹿の声
万葉びとが、繊細に感じとった音に、鹿の鳴声がある。「鹿の鳴声」と「秋萩」は、秋の音と景を代表するものとして歌われていることが多い(万葉でセットになるのは、鹿と紅葉ではなく鹿と萩である)。『万葉集』には、
大伴坂上女郎、跡見庄にして作る歌二首
妹が目を初見の崎の秋萩は この月ごろは散りこすな ゆめ
吉隠の猪飼いの山に伏す鹿の 妻呼ぶ声を聞くがともしさ
(巻八の一五六〇・一五六一)
という<うた>がある。一首目では、秋萩よ散るなと歌い、二首目では鹿の妻を呼ぶ声が現在独りのわたしにはうらやましいと歌っているのである。万葉びとが、このように萩と鹿の声をセットで歌うのは、ともに秋を代表する大和の景と音であり、それは同時に万葉びとの情操をくすぐるものだったからである。
情感・文学の伝統
こういった景と音に対する反応は、歌を支える情感・情操となってゆく。おそらく、これは日本の風土から発生・成立したものであると思われる。なぜならば、<萩の開花>と<鹿の発情>が同時期であるということを生活のなかで実感しなければ、こういった情感が多くの人びとに共有されることはないと思われるからである。けれども、風土が同じならば、必ず同じような情感が形成され、そこから文学の伝統が生まれるかというと、そうではない。それには、そう感じるための「学習」が必要だからである。
わたしの担当するゼミナールの学生には、鹿の鳴声を聞くことも、万葉を学ぶ者の勉強のひとつと指導している。
聞こえない声を表現する
鹿の鳴声に対する磨ぎすまされた万葉びとの感覚を知ることのできる<うた>がある。
夕されば小倉の山に伏す鹿の今宵は鳴かず 寝ねにけらしも
(題詞省略 巻九の一六六四)
つまり、作者は毎日鹿の声に耳を澄ましているから、鳴声が耳に達しないと「寝てしまったのかなぁー」と「伏す鹿」を想起したのである。・・・なんと、繊細な聴覚だろう! |