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まぶしい時代に 〜藤原京の時代〜

藤原宮の御井の歌
  やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒たへの
  藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に
  あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の
  大き御門に 春山と しみさび立てり 畝傍の この瑞山は
  日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨の 青菅山は
  背面の 大き御門に 宜しなへ 神さび立てり 名ぐはしき
  吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける
  高知るや 天の御陰 天知るや 日の御陰の 水こそば
  常にあらめ 御井の清水
  (作者未詳 巻一の五二)

 評判の悪い大物の建設族代議士と同席したことがある。そして、ちょっとイタズラをしてみた。藤原京と、上ツ道・中ツ道・下ツ道の入った七〜八世紀の奈良盆地の地図を見せて、「こんな首都を造ると予算がパンクしてしまいますか?」と質問したのである。地図をまじまじと見た代議士は、次のように言った。「マッカーサーが日本の大統領にでもならない限り、こんな都市計画は実行できません」と。もちろん、これが七〜八世紀の地図であることは、伏せたままである。

 つまり、直線道路を中心とした古代の都を、現在の政治では造ることができない、ということなのである。よく考えてみれば、憲法改正・教育改革・税制改革・農地改革などは、マッカーサーの占領下に断行されている。

 その藤原京の主は、持統女帝だった。夫・天武天皇の遺志を継いだ持統天皇は、六九四年、藤井が原への遷都を挙行する。だから、この歌は、持統天皇の視線で歌われたものである。〈東……大和の青香具山〉〈西……畝傍のこの瑞山〉〈北……耳梨の青菅山〉と歌い、南は遠景として「吉野の山」を配している。これは、南に庭を配し、大きく南を望むという「天子南面の思想」を背景としている。まさに、新都讃歌である。私はこの歌を読むと、三波春夫の「東京五輪音頭」を思い出す。今となってはまぶしい高度成長の時代のシンボルとして。 

 奈良県橿原市の藤原宮跡に立って、この歌を歌ってみてください。持統天皇の気持ちがわかるはずです。

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