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棚橋昭夫『けったいな人びと−ホンマモンの芸と人−』をよんで

本書は、NHK大阪で長年演芸番組の制作を担当してきた著者の浪速芸人列伝である。それは、そのまま戦後のNHK大阪の演芸放送史と重なっている。出会った芸人たちの人と芸が手に取るようにわかる本書のおもしろさに、一気に読了した。対して、澤田隆治『上方芸能列伝』(文春文庫、一九九六年)は、民放の演芸放送史である。もし、二著に共通点があるとすれば、体験し、自ら作った歴史であるということであろう。

 そこで、思った。「芸人」は死滅したと。つまり、何かの芸によって身を立てるのだ、という意識をもつ人がいなくなったのではなかろうか。つまり、現在の落語家やコメディアンは、タレントなのである。だから、その才能によって身を立てるのであって、芸で身を立てるのではない。それは、芸態によってもわかる。ダウンタウンは、司会もやれば、歌もやる、トーク番組もやるということで、そこで何かの芸を磨いてゆくという意識は彼らにもないだろう。彼らは、タレントであって漫才師ではない。もちろん、あの磨ぎ澄まれた感性が光るトークの背後には、並々ならぬ苦労がある、ということはいうまでもない。

 それに対して、著者が接した芸人たちは、「芸で飯を喰う」という自覚をもった人びとなのである。ことに浪速千栄子の話は、この芸に対する執念のようなものを感じた。彼女の演技は日常を切り取ったかのようなリアリティーがあり、代役のない女優として高い評価を得ていた。ところが、驚いたことに、学校教育と縁遠かったせいか、読み書きには不自由していたようだ。しかし、あの正確な演技は、正しい台本の理解なくしてはありえない。つまり、台本の漢字が読めるということと、台本を理解して演技をするということは別のことだということがわかる。彼女にあったのは、叩き上げて芸人として飯を喰うという、という執念だったのである。

 次に思ったのは、芸人を使う興行師やプロデューサーと、芸人との関係である。今日、全国を席巻している大阪のお笑いパワーは、放送を媒体として全国発信されている。しかし、ラジオ以前は、寄席にゆかなければ、その芸を見ることはできなかった。したがって、ラジオができると全国にお笑いを発信できる芸人が必要になってきたのであった。当然、言葉遣いがあまりにも下品であれば、寄席では通用しても、放送にはむかない。このことを、芸人に理解させ、全国放送に通じる芸態を確立していったのが、NHK大阪の演芸放送の歴史であったということが、この本を読むとわかる。ちょっと危ない人たちを、どう使いこなすか、そんな逸話がいっぱい詰まっている本である。人の能力を引き出し、その能力にあった活躍の場を与える。興行師やプロデューサーの力というものを学ぶことができた。

 実は、学者というのも学芸で喰う芸人であるというのが、筆者の持論である。百年かかっても解けなかった数学の問題を手品のように解く。難しい宇宙の話を、ピンポン玉で説明してしまう。『万葉集』を、近所の井戸端会議のように身近に話す。そうしてこそ、プロの芸人というものである。難しい話を難しく話すのは誰にでもできる。だから、学生さんが授業がわからないということは、己れの学問が未熟なのだ、と思わなくてはならないだろう。

 本書を読んで思ったのは、あぁー俺も執念をもって頑張らねば・・・ということであった。まがりなりにも、みんなの月謝で飯を喰っているのだから。

 さて、このNHK大阪の名物プロジューサー・棚橋昭夫さんを、奈良大学の国文学科に招聘することができた。来年度は、私も学生諸姉諸兄と棚橋さんから珠玉の芸談を聞きたいと思っている。   (大阪浪速社刊、一六〇〇円)

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