『万葉集』の歴史的環境

環境問題への関心の高まり
  最近は、カルチャー・センター文化も成熟してきたと見えて、講演の内容を指定してくる企画ものの講座が増えている。以前ならば、何でもご自由に話してくださいというのが、多かったが、今は違う。多くの講座ができ、そこでは特色ある講義が求められているのである。そして、着実に受講者のレベルも上がっているのである。しかし、手強い聞き手がいてこそ、話し手も技を磨くわけで、講演を引き受けるたびに話の内容を練っているというのが、正直なところである。そういった講座でとみに注文が多いのは「環境」についてである。万葉の時代の環境ついて話してくださいとか、万葉びとの自然観についての依頼が最近は目立ってきた。

盆地生活者の文芸
  そういった依頼を受けるとき思い出すのは、基本的には『万葉集』は奈良盆地生活者の文芸であるということである。万葉びとは、大和青垣と呼ばれる山々に囲まれた盆地に暮らしている人びとであり、その山を越えると涙を流してしまうような人びとの文芸が『万葉集』であると、わたしは荒っぽく言い放つことにしている。たとえば、文武天皇の難波行幸につき従った忍坂部乙麻呂(おさかべのおとまろ)は、

 大和恋ひ眠の寝らえぬに こころなくこの渚崎廻に 鶴鳴くべしや 
  (巻一の七一)

という歌を残している。つまり、生駒山を越え難波に出ると、大和が恋しくて寝られなくなるというのである(「大和恋ひ」とは、なんと美しい言葉だろう)。このほかにも、奈良山や名張の山を越えることへ不安を述べた歌も多い。簡単にいえば、ここでいう万葉びとの生活圏は目で見通すことのことのできる範囲であり、青垣山という垣根あるいは壁で囲まれた空間と理解して大過ない。

  数字でいえば、『万葉集』に登場する総地名数一二〇〇の内、実に三〇〇は大和関係地名なのである。同じ地名が何回登場しても一回として数えても、実に四分の一が大和関係地名なのである。おそらく、万葉の時代の政治の中心が飛鳥・藤原・平城京にあり、そこが文化の中心であったことが、この背景にあることはいうまでもない。さらに付け加えるならば、文字文化の浸透度が、大和とそれ以外の地域とでは大きな差があったものとみられ、他の地域において歌を文字で記述することは困難であったことが−予想されるのである。

律令国家成立期の文芸
  この奈良盆地の諸地域に根を張った豪族の連合体が形成され、連合政権の頂点に立つ大王がのちの天皇家に繋がるというのが、大つかみの万葉前史ということができる。この古代国家は、やがて中国から漢字・律令・都城制・儒教・仏教などを導入することで急速な中央集権化の道を進むことになる。そんな時代の歌を、奈良朝末期あるいは平安初期に集大成したのが、いわば『万葉集』なのである。とくに、『万葉集』の巻一・巻二は歌で綴る「宮廷の歴史」といった観があり、天皇の御代ごとに時代順の歌の配列がなされていて、きわめて公的色彩が強い巻になっている。そして、そこに登場する歌の世界は圧倒的に大和を中心とした世界なのである。

  古代国家の展開を考える上で、どこに大きな切れ目を置くかは、歴史学や国文学でもその立場によって別れるところであるが、わたしは藤原京の創都と大宝令施行を中心に考えるのがもっとも良いと考えている。つまり、七世紀と八世紀の交を以て、律令国家の完成と考える見方である。藤原京に天皇の居所が移されたのは六九四年であり、今年は藤原京創都一三〇〇年のイベントが行なわれた。実に『万葉集』の巻一・巻二の原型となる部分は、この藤原京の時代にすでに形成されていたと考えられ、その痕跡を『万葉集』中に見いだすことができるのである。

三輪山惜別歌
  簡単にいえば、『万葉集』は奈良盆地を第一次の生活空間とし、その大和を中心に成立した律令国家の担い手たちの文芸であると総括することができるのである。そんな盆地生活者が、峠を越えて盆地の外に出るときの心情は、現代人のわれわれには共有しにくいものである。つまり、山を越えると生活圏が見えなくなってしまうのであり、そこに万葉びとは押さえがたい気持ちの高ぶりを感じたようである。一例に、奈良盆地の北辺奈良山を越える額田王(ぬかたのおおきみ)の歌を挙げておくことにするが、紙数の都合から、長歌は省略して反歌のみを記しておきたい。

 三輪山をしかも隠すか 雲だにもこころあらなも 隠そうべしや   
  (巻一の一六)

額田王は、明日香から近江に向かう途次、三輪山の見えなくなる奈良山で、三輪山への別れの歌を作ったのである。そして、重要なのは三輪山が奈良盆地で生活するものにとってシンボッリックな機能を持った聖地であったことも忘れてはならないであろう。三輪山は山そのものを神の体とする山であり、神話の舞台なのである。その三輪山を常に仰ぎ見て生活していた万葉びとのひとりに額田王もいたのである。額田王は、大和への断ち切れない思いを胸に、三輪山をいつまでも見ていたいと絶唱したのであった。

  わたしの勤務先の大学は奈良山丘陵の一角にある。晴れた日には、その教室の窓から三輪山を見渡すことができる。この三輪山惜別歌の講義をするときには窓を開けて話を進めるのだが・・・、果たして奈良で万葉を学ぶということの「幸せ」をわが親愛なる学生諸姉諸兄はどこまで理解してくれているのか、−一抹の不安が残るところである。ただ、わたしも学生たちも盆地生活者のひとりであることだけは、間違いない。

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