「注釈」とは、作品と今の読者をつなぐ作業である。諸本間の文字の異同を見て、校訂と呼ばれる作業を通じてテキストを作り、現代人にはわかりにくい言葉や表現に注をつけ、現代の言葉に置き換える、といった作業である。
『万葉集』の注釈の歴史は、ざっと千年といわれている。研究というものは、当然進歩しているはずだが、時として三〇〇年前の学者の説に、平成の学者が破れたりすることもある。また、新しい学説だと思いきや、江戸時代の学者がすでに指摘しているということもある。
したがって、われわれ万葉研究者は、千年間行なわれているリレーの一走者に過ぎないのである。すでに冥界に入った過去の学者は、今の研究をどう見ているだろうか。また、千年後の学者は、平成の万葉学をどう見ているか。知りたいところである。その時々の学者たちは、その時々の読者の心に届くように、注釈をしてきたのである。
とすれば、注釈を行なう者は、現代の読者のことを忘れてはならないはずである。「春過ぎて夏来たるらし 白妙の衣干したり 天の香具山」(巻一の二八)は、年中行事となっていた衣干しを見て、夏の訪れを実感した歌である。肉まんのコマーシャルが、アイス・キャンディーに変わった時に、夏の訪れを感じるという現代人には、その生活実感に応じた注釈が必要なはずである。そうでなければ、平成の世に平成の注釈を作る必要などないのである。
『万葉集』には、火葬の煙で無常を詠んだ歌があるが、最新式の火葬場は煙が出ないそうである。そのうち、「かつては火葬をすると煙が出た」と注釈をしなければならない日が来るかもしれない
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