相撲といえば、現在、「国技」であり「スポーツ」である。それは、相撲が綱引きと並んで日本人の生活に密着した競技であったことを意味する。村ごとの力自慢や、村ごとの横綱がいて、相撲と綱引きは、日本人にとって最も身近な「スポーツ」であるといえるだろう。そして、それは東アジア世界にも共通する広がりをもった文化でもある。
しかし、我々が今日考えている「スポーツ」や「競技」、「芸能」「祭儀」という区分概念の歴史はそんなに古いものではない。明治以降に定着した学校教育と同じくらいの歴史しかないであろう。日本人にとっての相撲とは、今日でいう競技としての性格や、芸能としての性格、さらには祭儀としての性格を合わせ持つものであった。
日本人にとっての相撲とは、地域を代表する力自慢の心・技・体が激突する「競技」であるとともに、その美を愛でる「芸能」であり、神意を占う「祭儀」でもあった。それは、綱引きにも共通することである(上野誠「力と対立の競技」赤田光男他編『講座 日本の民俗学』第八巻、雄山閣出版、一九九九年)。
だから、相撲は寺社の法会や祭りのなかで伝承されてきたのであった。地域差で見ると大和では十月の秋祭りにおいて相撲が行なわれることが多いが、南九州では十五夜綱引きと相撲はセットになって伝承されている。対して、北部九州では盆行事として相撲と綱引きが伝承されている。
歴史を遡れば、『続日本紀』天平六年(七三四)の七月七日条に、聖武天皇の相撲観戦の記事がある。この記事は、平安時代になると「相撲節会(すまいのせちえ)」として定着する宮廷の七夕行事の先駆けと考えられている。つまり、古代の宮廷においては、七夕行事として相撲が行なわれていたのであった。相撲の起源とされる伝説上の英雄、タイマノケハヤとノミノスクネとの力比べも、『日本書紀』は垂仁天皇七年七月七日条のこととして伝えている。この伝承は相撲節会の起源を説明するものであるから、古代の宮廷においては、七夕行事の一つとして相撲が伝承されていたことがわかる。
おん祭における相撲は江戸時代には儀式化し、祭りの終わりの節目の行事として行なわれていたものと見られる。ここに縷々述べた祭りのなかに定着している相撲の伝承形態の一つを看取することができるのである。 |