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青木周平著『古代文学の歌と説話』(若草書房、2000年10月31日発行)

本書を読んで、とある座談の折、筆者の青木氏が語られた言葉を思い出した。それは「今後、記紀と万葉という研究領域の棲み分けなど意味をなさなくなると私は思います」という言葉である。本書を読んでその意味を痛感した。

 前著『古事記研究−歌と神話の文学的表現−』(おうふう、一九九四年)は、徹底的にその表現を追究することによって、作品の特質を見定めようとした書であった。評者は、前著の研究方法が吉井巌・神野志隆光氏らが提唱した作品論的分析を深化させたものであると理解し、その到達点の一つに前著を位置付けている。文学研究は、個別の作品の表現の特性を明らかにするところからしか出発し得ないという考え方である。これは、ややもすれば個別の作品の特性を無視する傾向にあった研究の潮流に対する批判でもある。 こういった前著の成果を踏まえつつ、個々の作品の表現世界を比較し、相対化してゆく試みが、縦横無尽に行なわれたのが本書である。本書全体の方法を示すプロローグとなっている「T 起源語りとしの<説話>」(一〇頁)では、記紀と風土記の<大地>の起源の語られ方の違いを明らかにして、個別の作品が表現しようとした空間の特性を筆者は見定めている。天皇の統治する空間としての「大地」「国」がいかに表現されているか、一つ一つ丁寧に説かれているのである。

 これと響き合っているのは「Y 万葉集の歌」の「第一章 国見歌と季節歌」である。ことに「1 舒明天皇国見歌」(二二六頁)では、従来から問題になっていた舒明国見歌(巻一の二)の「大和」「国原」「海原」との関係が見事に解かれている。単に実景か否かという問われ方をされていた問題を、神話的表現と見ることによって、国見歌の志向する世界を明らかにした節である。

 筆者は「国原−海原」という対句表現を記紀の三貴子分治と関わらせて、そこに神話的表現を確認したのであった。つまり、天皇が統治する空間をどのように表現したのかという問題として、国見歌の表現を見ようとしているのである。こういった研究の方法に、本書の真骨頂があるのではないか、そう思いながら評者は、これまで従来の注釈を鵜呑みにしていた自己の読む力のなさを反省させられたのであった。そして、さらにこの論は人麻呂の吉野讃歌へと続いてゆく。筆者はその結論を簡潔に語る・・・「記紀歌謡以来の国見歌は、舒明天皇国見歌をもって最後とする」と。

 筆者は、以上のごとき表現の比較研究を「文学空間の相対化」として捉え、「文学史」という言い方を避けている。それは、なぜだろうか。評者は、ここに個別の作品の特性を重視する筆者の研究の姿勢の垣間見る思いがした。と同時に、冒頭の筆者の言葉を思い出したのであった。

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