大和には、不思議な神がいる。それは、一言だけ願いを聞いてくれる、という神である。それ以外の願い事は、いっさい聞いてくれないのである。だから、この神社の参拝者は、お賽銭を入れるときに迷う。何せ、商売繁盛、交通安全、娘の良縁、孫の受験……と現世に生きる我らの悩みは深く、願い事も多岐にわたる。
かく言う私も、この神社にお参りするときには迷う。いつも迷う。しかし、それを一つに絞らなくてはならない。良い論文が書けますように、原稿料が上がりますように、いやいや体重を下げなくては──、とあれやこれやといつも悩む。いつも迷った挙げ句に、祈願するのは家族の健康である。いろいろ考えてはみるのだが、一つと言われると、これに尽きるような気がする。人間、かくも弱き者、弱きゆえにいとおしき者。
その神の名は「一言主大神」。『古事記』にも『日本書紀』にも登場する神である。一言主大神がいます森は、奈良県御所市の森脇というところにある。葛城山の麓にある小さな社にこの神はいる。言葉の神、託宣の神である。日本語の「コト」は「事柄」の「コト」であるとともに、「言葉」の「コト」でもある。古代の人びとは、言葉を神として崇め、言行一致の戒めとしたのである。だから、一言主大神の言葉は限りなく重い。古代国家統一の英雄たる雄略天皇にも、大神はこう言い放ったのであった。
吾は悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城の一言主の大神なり。
「我こそは、悪い事も一言、良い事も一言で言い放つ神、葛城の一言主大神であるぞ──」と、なんとも見事な名のりである。
これほどまでに、日本語の乱れを指摘される時代もない。その一方で、多くの人びとが、日本の古典の響きを、みずから学ぼうとしている。 |