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木簡とラブ・ロマンス

秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも
  (但馬皇女巻二の一一四)

作家の瀬戸内寂聴さんが、とある講演会でこんなことを言っていた。
  恋なんていうものはですね。交通事故と同じでねぇ、気づいたときには、もう遅いんですよ。あとから何を言ってもだめ……好きだ好きだの一点張りでしょう。

 つまり、恋というのは防ぎようのないものなのである。
  今をときめく太政大臣・高市皇子の妻でありながら、道ならぬ恋に走った女がいた。その名は、但馬皇女。若き貴公子、穂積皇子のもとに走ったのである。仮にこのゴシップが六九一年に起ったとすれば、高市皇子三十八歳、穂積皇子二十五歳、但馬皇女は二十四歳以下と推定することができる。

 宰相の妻の一人が……若い皇子のもとに走った。それだけで、街はうわさでもちきりだったに違いない。秋の田の穂波は風向きで右にも寄れば、左にも寄る。風が吹けば、いっせいに稲穂の向きは、風下に寄るのである。その秋の田の穂波のように、あなたに寄り添いたい……人のうわさがどんなに激しくても、と但馬皇女は歌ったのである。

 「秋の田の 穂向きの寄れる片寄りに」という比喩に思いの深さが表れていて、新鮮である。私などは、風の吹く日の秋の田圃を思い出して、但馬皇女の心中を思いやる。いつの時代も、人はそねみ、ねたみ、他人の恋を酒のさかなにする。「言痛く」とは「言葉が痛く」なのであり、それは皇女自身に向けられた「言葉」の「礫」だったのであろう。万葉びとも、うわさが好きだったのである。

 本年七月、橿原市教育委員会は、香具山のふもとの「藤原京左京一・二条四坊 出合・膳夫」の発掘を行い、「穂積親王宮」と記された木簡を発見した。この歌を贈られた穂積皇子の邸宅という意味である。ここからは、慎重に言葉を選ばなくてはならないが、発掘地の近辺に穂積皇子の邸宅が存した可能性も出てきたのである。対して、一方の当事者である高市皇子の邸宅が「香具山の宮」と呼ばれていたことは、柿本人麻呂の高市皇子挽歌によってわかる(巻二の一九九)。とすれば、このラブ・ロマンスは、香具山をはさんでココとソコという位置関係で演じられたのかもしれない。
  読者の皆さんへ、今年の穂波はどちらに寄っていますか?

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