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感性を研く 〜実感の科学のために〜

畏友の大石泰夫さんと、現在『万葉民俗学』という本を編集している(世界思想社刊、本年九月刊行予定)。そこで、あらためて、折口信夫の業績を振り返る機会を得た。もし、今・・・折口の学問の魅力はどこにありますか? と質問されれば、私はこう答えるだろう。「そうですね。歴史の枠組みを突破らったアナーキーなところですかね」と。近代科学は研究対象を細分化し、研究を集積することによって、発展を遂げてきた。今日、『万葉集』と『源氏物語』の両方を専攻する学者など数えるほどである。それは、大学院生の時から、一つの専門領域に特化して論文を書いて、業績稼ぎを行なうからである。

 折口に「ごろつきの話」という論文がある。その書き出しには、こうある。
  無頼漢(ゴロツキ)などゝいへば、社会の瘤やうなものとしか考へて居られぬ。だか、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。
(『古代研究』民俗学篇第二巻、大岡山書店、一九三〇年。旧版『折口信夫全集』第三巻所収、中央公論社、一九七五年)

以下、折口は、日本社会における無頼漢の歴史を説き続けるのである。古代における「ほかいびと」「うかれめ」からはじまり、にせ山伏、やくざ、すり、かぶき者、幇間、遊女・・・。簡単いえば、日本社会におけるアウトサイダーの歴史である。折口は、彼らこそ、彼女らこそ、日本の芸術運動の担い手であった、と説くのである。どこか荒っぽく、残虐性を持っているが人を引き付ける魅力があり、色っぽい人びと。折口は、日本の無頼の徒の性格をしばしばそのように分析してみせる。そして、能や幸若舞、歌舞伎は、舞台においてその無頼の徒の姿を見せるものだ、と説くのである。たとえば、歌舞伎の六法や、遊女の道中の八文字は、社会から時に疎外されたかぶき者たちの闊歩する姿を写したものである、と説くのである。

 だから、折口は歌舞伎に<濡れ場><殺し場>のような「残虐的、或は、性欲的な場面――が、多分にあったとしても、其は、必ずしも、不思議とするには当らないのである」いっている。近年、とある文芸評論家が、歌舞伎・文楽のこういう傾向を捉えて、日本文化の恥であると「咆哮」したが、その人はそういう日本の芸能の成り立ちを知らないのであろう。恥であるかどうかは、個人の価値基準に委ねられるとしても、芸能の担い手とそれを支持した観客の存在を否定することはできないのではないか、と思う。

 さて、この折口の論文から、筆者が学んだことが二つある。一つは万葉時代から歌舞伎の発生までを捉えたスケールの大きさ。これは歴史主義というよりも、無歴史主義もいうべきものであろう。それについては、冒頭において述べた。我もかくありなんと思うが、実際は「井の中の蛙」である。
もう一つは、歩き方などの身体技法に折口が注目している点である。暴走族には衣装ばかりではなく、それなりの身のこなしも要求されるというもの。コンビニエンス・ストアーの前でたむろする若者の座り方にも、それなりの流儀があるのである。だから、私は民俗学や文学の研究者は、時代をつかむ感性を研かなくてはならないと「咆哮」したい。自戒の念を込めて。

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