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言葉、この歴史的なるもの

将来云毛
不来時有乎
不来云乎
将来常者不待
不来云物乎 (『万葉集』巻四の五二七)

 外国語で口説けるか?
恋をした。恋文を書くことにしよう。
英語で書けば「I love you」だろう。でも、私は、日本語なら「俺、君のこと愛してるんだよ」と気取って書けるし、郷里の博多弁で「俺くさ、アンタンこつ、愛しとるとばい」とも書ける。また、関西弁で「ワシなー、お前のこと愛しとるやー」とも書ける。つまり、表現を選んで自由に書けるのである。私は時と場合とによって、自由に使い分けることができる。それは、日本語が私の母国語であるからだ。
と同時に、母国語を表記するための表記法が確立しているからである。どんなに、がんばっても、母国語以上に第二言語がうまくなるはずがない。したがって、大切な人に、大切な思いを伝える場合には、母国語で考え、それに適した表記で記す以外に道はないのである。
プロポーズの手紙、遺書・・・それは、何語で書きますか?

独自の文化を主張する/文明と文化
文明の歴史とは、それぞれの民族の使う言葉と、それぞれの言葉を表記する方法を模索し、獲得してゆく歴史でもあった。中国文明圏の諸民族は、漢字を受け入れながら、自分たちの言葉にふさわしい表記法を模索し続けたのである。シルクロードの国・西夏の西夏文字、朝鮮半島のハングル、日本における仮名、またベトナムは悩んだ末に漢字を放棄して、現在ローマ字表記を用いている。自分たちの言葉にふさわしい表記法を確立することは、中国文明圏に属しながらも、民族の独自性を主張する文化的な独立運動でもあった。
したがって、明治までは公用語、外交用語としての中国語および漢文と、私的用語、家族語としての日本語の二つの言語をインテリたちは学習した。明治以後は、前者がドイツ語や英語に代わっただけのことである。夏目漱石が、漢学塾をやめて英語に転向するのが、その変化を象徴的に示す出来事、といえるだろう。漱石は、これからは漢文より英語の時代だという忠告に素直に従ったのである。
しかし、彼は英語を教えながら、日本語で小説を書いた。日本におけるインテリゲンチャーとは、二重の言語生活をする人のことなのである。これを解りやすく言うと「和魂漢才」「和魂洋才」となるのである。

女性と文字
母国語を、それを書き留めるにふさわしい方法で表記できる。そうなった時に、人は自由にその「思い」を書き留めることができるようになる。こうして文字文化のインフラできはじめるのである。日本はそういうインフラ整備を最も早く進めた国であるといえるだろう。『源氏物語』という世界最古の長編小説を女性が十一世紀初頭に書いたことは、そのインフラ整備が、そこまで進んでいたことを端的に表している。
歌集の編纂、物語集の編纂、辞書の編纂が、古典の出版事業が、宮廷や幕府などの大切な仕事であったのは、言葉による国づくりのインフラ整備と考えられていたからである(文章ハ経国ノ大業)。
さて、女性の文字普及を急速に進めたのが「ひらがな」である。「ひらがな」が「女手(おんなで)」と呼ばれたのは、そのためである。しかし、日本人は「カタカナ」と「ひらがな」を手にすることによって、自由に言葉を書き留めることができるようになった、といえよう。この仮名の源流が、『万葉集』にあるのである(後述)。
女性の識字率向上は、十年後に飛躍的な文字の普及をもたらす。なぜならば、母親が子供に文字を教えるからである。文部科学省が現在行っているアフガニスタン復興支援プログラムの中に、女子教育の復興があるが、女性が文字を獲得しない限り、識字率は向上しない。これは、歴史の示すとおりである。

文字文化のインフラ
魯迅は日本に留学して、びっくり仰天した。なんと、この国では、旅館のお手伝いさんまで・・・文字が読めるではないか。当時の中国では考えられないことである。マッカーサーのGHQは、日本の民主化のためには、難しい日本語表記の変更が必要であると考え、全国一律の識字率テストを行ったが、その識字率の高さに驚き、当初予定されていたローマ字化などの改革を変更したのであった。紫式部が世界最古の長編小説を書いたことと、明治以降の発展が早かったことは、けっして無縁なことではない。文字というのは、数百、数千年単位で、蓄積されてゆく文化なのである。
議会制民主主義には、憲法と議会が必要だが、それは憲法をはじめとする法令を咀嚼する力と、投票用紙に文字を書く力が国民に行き渡っていることを前提とした制度である。一朝にして、議会制民主主義が根づくものでないことは、紛争地域で日本のPKOが行っている識字率向上のための活動を見てもわかる。何よりも、まず、文字なのである。はじめに、女性に文字なのである。

歌を書き留める/文字習得のトレーニング
日本では、平安朝に「カタカナ」や「ひらがな」が発明される。「カタカナ」は寺院、「ひらがな」は女性を中心に、それは広がってゆく。
では、奈良時代以前の表記はどうだったのだろうか。奈良時代以前までは、漢字の音を借りて表記したのである。これが、万葉仮名である。
奈良県の明日香村の石神(いしがみ)遺跡から、次のような木簡で出ている。当然、飛鳥時代のものである。

〔布由ヵ〕
(表)奈尓波ツ尓佐児矢己乃波奈□□□
               〔丈ヵ〕
(裏)□ □倭部物部矢田部丈部□
(295)・(29)・4 081 東西大溝

この木簡は、習書木簡(しゅうしょもっかん)と呼ばれるもので、文字を書く練習をした跡である。歌を書き留めた最古級の木簡の一つであり、歌を書き留める練習をした木簡と考えられる木簡である。まず、学習者は歌を覚える。次に、その歌の表記を教えてもらうのである。歌は、

  難波津に咲くやこの花
   冬ごもり 今は春べと
   咲くやこの花

と決まっていた。何事も普及させるためには規格化が必要なのである。
こうして、定まった歌を暗誦して、暗誦できるようになったら、その音に対応した文字を教えてゆくのである。いろは歌、あいうえお、ABCの歌と同じで、文字を教える前に歌を教えるのである。そうすれば、自然に音と仮名が対応してゆく。つまり、体と声で歌を覚え、その音に対応する文字を手で覚えてゆくのである。これができるようになると、文字から音を連想できるようになる。文字から音が引き出せるようになれば、しめたもの。音を文字にしてゆくことができる。ここまでできれば、仮名での読み書きができるようになる。

声から文字へ
では、具体的には、どう学習してゆくのだろうか。「ナ」「ニ」「ハ」「ツ」「ニ」「サ」「ク」「ヤ」「コ」「ノ」「ハ」「ナ」と声に出して歌いながら、それを「奈尓波ツ尓佐児矢己乃波奈」と書き留める練習をするわけである。だから、「難波津に咲くやこの花」の歌を記した習書木簡が各地の遺跡から出てくるのである。それは、歌を書き留め、文字を学ぶトレーニングの跡なのである。少なくとも、七世紀から十世紀くらいまでの文字学習者は、そうして「難波津」の歌から文字を学んだのである。この木簡の裏には「倭部」「物部」「矢田部」「丈部」などの部民に由来する姓が書かれている。こちらは、姓に関わる字を練習の跡。役所で仕事をする時に、必要だったのであろう。
私の娘は、五歳だが文字を書くときには、必ず「声」を出してしまう。反対に、「声」を出さないと「文字」がかけない。ABCを書くときにはABCの歌がつい口ついて出てしまう。それでよいのだ。彼女は「音」と「文字」を結び付けようとしているのだから。それでよいのだ。「文字」より前に「歌」があるのだから。

「文字」より前に「歌」がある
「楽譜」より前に「歌」がある。「文字」より前に「歌」がある。「文字」を持たない民族は多いが、歌のない民族はない。文字の歴史は高々数千年だが、歌の歴史は数万年。人類にとっては、文字よりも歌のほうが、より普遍性の高い文化なのである。最近、斉藤孝氏によって、音読や暗誦の重要さが見直され始めたが、もともと文字は歌によって学ばれたものなのである
お坊さんが、長いお経を覚えられるのも、それが歌になっているからである。その歌を通して、文字が学ばれたことが、古代遺跡の発掘成果によって、近年解明されてきたのである。
日本語の歌は、中国語や漢文では正しく表記できない。「俺くさ、アンタンこつ、愛しとるとばい」と「ワシなー、お前のこと愛とるんやー」というニュアンスを書き分けて伝えることができないのである。

言葉を鍛えることは、思考を鍛えること
歌を通して、文字の習得がなされたから、七世紀や八世紀は、自らの思いを託した歌を書き留めることが容易にできた。お陰で、われわれは七世紀や八世紀の人びとの歌を読むことができるのである。つまり、千三百年前の先輩の歌を声に出して読むことができるのである。
いつの時代も、歌を学び、自らの思い綴ろうとするものは、万葉を学び、源氏を学んできた。日本語の使い手の先輩として。そういうことが可能なのは、万葉仮名の表記が開発され、学習の方法が行き渡り、文字文化蓄積のインフラ整備が行われてきたからなのである。
ところで、『万葉集』を継ぐ歌集である『古今和歌集』の仮名序の冒頭は、次のようにいう。

   やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも、慰ぐさむるは歌なり。
 
これが、十世紀の歌集の冒頭に記された「やまとうた」について解説である。「やまとうた」というものは、人の心を種として育った樹のようなもので、歌は口から出たその樹の葉っぱのようなものである。人は生活の中でさまざまなものに触れて歌を歌うが、歌は生命あるすべてのものが歌うものである。というのが、大意である。思いをそのまま表現し、それを書き留めることができる。もちろん、これは歌集の序文に記された理想ではあるが、われわれはそういう日本語力を身に付けているだろうか。また、身に付けるように努力をしているだろうか。
国際化社会を生き抜くためには、英語は必要である。しかし、言語は、生活世界そのものである。この千年以上をかけて蓄積してきたインフラを最大限に活用して、日本語で考え、話し、書くことを鍛えることのほうが、私には効率的ではないか、と思えるのだが・・・。過去の歴史と決別した言語文化など、世界中のどこにも存在しないのだから。

これほど繊細な心情も万葉歌は伝える
最後に、冒頭に挙げた万葉歌の解説をして擱筆の言としよう。
これは、最近ご無沙汰続きの恋人に現在の自らの恋心を伝え、「ちくり」と針で刺した「おんな歌」である。

来(こ)むと言ふも
来(こ)ぬ時あるを
来(こ)じと言ふを
来(こ)むとは待たじ
来(こ)じと言ふものを

「ちくり」と針で刺しながら、なおも男の訪れを持っている歌といえるだろう。それを、女子高生のE・メール風に訳してみると、こうなる。

  来ようと言ったって
   来ない時があるのにさー・・・
   来ないって言ってるのを
   来るだろーなんて思って
待ったりはしませんよーダ。
   来ないよって、
アナタが言ってるのに―-。
(ことに「のに」は強く読みたい)

『万葉集』って古臭いですか?
家族や会社、そして役所で使っている日本語・・・生き生きと輝いていますか?
 
言葉、この浮気もの。
言葉、この歴史的なるもの。

そして、今私たちに何ができるか・・・。

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