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興福寺と二人の采女と

我れはもや 安見児得たり 皆人の得かてにすとふ 安見児得たり(巻二の九五)

 奈良を代表する景は、何といっても猿沢池越しに見る興福寺の五重塔だろう。先日、修学旅行以来三十年ぶりに奈良を訪れたという友人を猿沢池に連れて行ったが、現地に立って記憶がよみがえったようだ。景というものには、記憶を蘇らせる力というものがある。その夜は、柿葉寿司を肴に、初恋話に花が咲いた。

奈良時代の興福寺には七つの門があり、南大門には花園が設けられていた。その花園の一角にあったのが、この猿沢池である。平安時代を代表する歌物語『大和物語』には、采女の入水伝説が収載されている。時の帝の寵愛が薄れた采女が入水したという話だ。采女とは全国の豪族から宮廷に献上された美女たちである。彼女たちは、芸能をはじめとしたさまざまな仕事に従事した。しかし、恋は厳禁されていた。采女への恋慕は、死を持って償わなければならなかったのである。なぜなら、采女には天皇の妻となる資格があり、采女への恋慕は天皇に対する反逆を意味するからである。

ところで、大化改新の立役者であった藤原鎌足は、なんとその采女と恋に落ちた。しかし、この場合はおそらく天智天皇の特別の配慮を以って、彼は采女・安見児(やすみこ)と結婚できたのであった。まさに、それは二重の喜びであったに違いない。一つは恋を成就できた喜び。もう一つは、天皇が鎌足だけに結婚を許したという名誉の喜びである。私は旧著で「わたしはね、安見児を手に入れたぞー。皆、手中にすることができないといっている、(あの)安見児を手中にすることができたぞー」と訳をつけたが、鎌足の喜色満面は想像するにあまりある。

 興福寺は、藤原氏の氏寺。鎌足こそ、藤原の姓を賜った本人である。興福寺の前進は厩坂寺、さらにその前進である山階寺の二つの寺院は、鎌足とその子・不比等が造った氏寺である。禁断の恋を許された鎌足と安見児、そして猿沢池に身を投げた『大和物語』の采女。私は猿沢池を通りかかると、この二人の采女のことを思い出す。


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