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曝さず縫ひし我が下衣 〜解釈の迷路〜

橘の     橘ノ
島にし居れば 島ニ居ルト・・・
川遠み    川ガ遠イノデ
曝さず縫ひし 曝サズニ縫ッテシマッタ
我が下衣   我ガ下着!
(譬喩歌 巻七の一三一五)

当該歌は、多くの注釈家を悩ませてきた迷路のような歌である。いったい、どのような寓意が込められているのか? その寓意がなかなか読み取れないのである。「我が下衣」が<譬喩の媒体>となっており、その背後に何らかの<主意>があることはわかるのだが、それを読み取ることが難しい歌なのである。

「橘の島」は、いうまでもなく明日香の橘であり、島は石舞台古墳の下手にあたる。当該歌には、日並(草壁)皇子の居所であった「島」が詠み込まれている。皇子の挽歌にも、「橘の島の宮には・・・」(巻二の一七九)と歌われているのである。したがって、島は橘に入ると考えてよい。この島宮を最初に築いたのは蘇我馬子であった。馬子は、この地に池を掘って、庭園を営み、ために「島の大臣」と呼ばれている(『日本書紀』推古三十四年五月二十日条)。いわゆる「飛鳥河の傍の家」である。二〇〇四年一月から明日香村教育委員会が行っている島庄遺跡の調査によって、七世紀前半および後半の大型建物跡が確認され、これが「飛鳥河の傍の家」「島宮」と現在考えられている(「明日香村の文化財C 島庄遺跡」明日香村教育委員会、二〇〇四年)。しかも、建物群は、今後の調査によって、さらに広がってゆく可能性も大きいようである。

そうすると、なぜ明日香川に接し、そのために「飛鳥河の傍の家」のある「橘の島」が、「川遠み」(川ガ遠イノデ)と表現されているのか、ということが問題となるのである。これには、万葉学の祖・仙覚も頭を悩ませている(『仙覚抄』一二六九年成立)。仙覚は、「橘の島」を伊予に求めている。しかし、これを支持する注釈書は現在無い。この問題に対する一つ解は、衣を干すのにふさわしい川は、遠かったとする解釈であろう。森本治吉は、布を干すのには広い河原が必要で、「橘の島」はそれにふさわしい土地ではなかったとして、この解釈を提案している(「飛鳥文学の庶民性」『明日香村史』中巻所収、一九七四年、明日香村史刊行会)。森本説を、渡瀬『全注』は支持するが、筆者はこれを支持しない。なぜならば、歌の遠近は主観だと考えるからである。たとえば、「采女の 袖吹き返す 明日香風 京を遠み いたづらに吹く」(巻一の五一)も、これは物理的な距離の遠近を述べているのではない。時代が変わり、都が遷った空虚感を、距離で表現しているのである。明日香宮と藤原宮という目と鼻の先の距離でも、遠いと歌われることがあるのである。したがって、ここは無理に実態化せずに、作者は何らかの理由で遠いと感じていた、と解釈するしかない、と思量する。

では、「曝さず縫ふ」とは、どういうことなのだろうか。仕立てる前に、布を水と太陽に曝すのは、<布から汚れを除去し><光沢を出し>、さらには<肌になじむようにするため>である。麻ならば、曝せば曝すほどに白くなってゆく。これは、反復性の強い女性労働であった(上野誠「麻と女」『国文学』第四十九巻八号所収、学燈社)。有名な「多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだ愛しき」(巻十四の三三七三)も、この労働に従事する妹への思いを歌った歌である。そして、忘れてはならないのは、「洗い張り」すなわち万葉語でいう「解き洗ひ」の場合も、いったん縫い糸を取り払い、布を洗ってから、仕立て直すので、「曝して縫ふ」ことになるのである。とすれば、曝さずに縫うということは、《汚れていて》《光沢がなく》《肌になじまない》状態で縫製をしてしまうということになる。諸注釈は、「衣――着る(=結婚の意)」という縁語関係を手がかりとして、ここに寓意を読み取ろうとするのである。「衣を着る」という縁語が、結婚を意味することは、当該歌の直前の歌によっても、確認できる(巻七の一三一二・一三一三、巻十二の二八五二)。それが、下衣ならば、内縁関係という意味合いを持つのではないかと考えるのである。以上の点を手がかりとして、諸注釈は、知恵のかぎりを尽くして、その<主意>を探ろうとしているのである。

(1)公にできない結婚(契沖『代匠記』精撰本)
(2)仲立ちを立てずにした結婚(鹿持雅澄『古義』)
(3)女の性格を調べもせずにした結婚(鴻巣『全釈』)
(4)手続きもせずにした結婚(窪田『評釈』)
(5)人妻を奪った結婚(土屋『私注』)
(6)色黒で垢抜けしない女との結婚(渡瀬『全注』)
(2)(3)(5)(6)は、かなり具体的に推定しているのがおもしろい。どれも、隠されている<主意>の想定許容範囲のなかに入るであろうが、大切なのは次の二点である、と筆者は考える。一つは、普通の結婚が踏む手続きをしていなかったということ(2)(4)。もう一つは、したがって拙速な結婚であった、ということである。

 ならば、結婚において、予想される手続きや障害とは、どういう事柄を想定すればよいのだろうか。万葉歌のなかから、考えてみよう。一つは、思いを寄せた女性が未成年であったということが考えられる(巻七の一三一五、巻十の二二一九)。とすれば、「髪上げ」を済ませるまで、待たねばならないことになる(巻十六の三八二二)。二番目は、母の承諾が得られないということが想定される。

たらちねの 母に障らば いたづらに 汝も我れも 事そなるべき
(巻十一の二五一七)
たらちねの 母に申さば 君も我れも 逢ふとはなしに 年ぞ経ぬべき
(巻十一の二五五七)

母の承諾のない結婚は絶望的なのである。万葉びとの結婚においては、最大の難関といえよう。
  しかし、こういった手続きを待てない場合も多かったはずである。したがって、その場合は、先に内縁関係を結ぶということがあったのではなかろうか。

人言の 繁き時には 我妹子し 衣にありせば 下に着ましを
(巻十二の二八五二)

この歌は「人ノ噂ガ コンナニモ激シイトキニハ モシアノ娘ガ 衣デアッタラ 下ニ着ヨウニ」と歌っている。つまり、噂を避けるために、密かに内縁関係を持ちたいとホンネを述べているのである。

 以上の点を勘案すれば、当該歌は何らかの理由により、普通の結婚では、一つ一つ踏まえられてゆく手続きを飛ばして、拙速に内縁関係を結んだことを歌う歌ということになるのではないか。髪上げ前に事実婚をした、母の承諾を得ることを不可能と判断して内縁関係を結んだ、激しい噂を避けたいので内縁関係とした・・・などの理由が想定されるであろう。もちろん、これらは万葉歌のなかから、内縁関係をとる理由を探せば、これらの理由が想定できるということに過ぎない。おそらく、それを特定する鍵が上句の「橘の 島にし居れば」にあるのであろうが、歌われた当時においては、表現者と聞き手・読み手に共有されていた情報や知識を、残念なことに今日我々は知り得ないのである。ために、筆者もまた、この迷路の中にいる。


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