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祖を偲び、歴史に学ぶ「御国忌」

関西に来て十二年。あをによし奈良も、私の故郷になった。赴任して最初に驚いたのは、「天皇さん」という言い方である。京都の人は、天皇さんは東京に仮住まいしているくらいに思っているから、おもしろい(このあたりの薀蓄については、祇園のお茶屋さんで聞くのがよいらしいが、そんな機会は私のごときには永遠にないだろう、残念!)。考えてみれば、古墳から、神社仏閣に至るまで、それは「天皇さん」ゆかりのものなのである。さん付けで呼ぶのは、尊崇より、敬愛の気持ちが勝っているからなのだろう。何と言っても、身近なのである。と同時に、関西に住む人びとが歴史を身近に感じている証拠でもある。私の勤務校の所在地からして、神功皇后陵ゆかりの「山陵町(みささぎちょう)」なのだ。

 薬師寺では、天武天皇の忌日に、薬師寺を建立した天皇のご遺徳を偲ぶ法会が行われる。天武天皇が崩御されたのは、朱鳥元年(六八七)九月九日なので、月遅れの十月九日に、天武天皇忌日の法会を行うのである。これが「天武忌(てんむき)」である。しかし、地元の人びとは、それを親しみやすく「天武さん」と称するのである。ちなみに、橿原神宮の四月三日の神武天皇祭も「神武さん」と呼ばれて親しまれている。

 二十年ほど前に、故高田好胤管長から、「あんた、万葉集勉強してはんのやったら、うちの『天武さん』に来て、願掛けせんとあかんで・・・」とお声を掛けていただいた日のことを今も鮮明に覚えている。当時は、情けないことに「天武さん」の意味がわからず、私はきょとんとしていた。すると管長は「ほんまわね、『国忌』とか『御国忌』といわなあかんのやけどな」と言葉を継がれたのであった。私は当時、東京の目白の和敬塾という学生寮に住んでおり、そこに管長様が講演に来てくださったのであった。

 「国忌」「御国忌」とは、天皇崩御の日に、定められた寺々において行われる追善供養のことであり、薬師寺においては、本寺創建の天武天皇の忌日にその追善供養を行うのである。なお、「国忌」は「こき」ないし「こくき」と読みならわされている。対して、接頭語の「御」がついた場合には「みこっき」と呼ばれることが多いようである。

 明日香の檜隈大内陵(ひのくまのおおうちりょう)すなわち天武・持統天皇合葬陵に詣で、寺に帰って天武天皇、持統天皇、大津皇子の画像に対して、供養が行われるのである。現在、拝しているのは小倉遊亀画伯の手によるものである。こういう法会のあり方は、中世の御影供(みえいぐ)に近いものであろう、と考えられる。中世においては、開祖や学問の師の画像(御影)を掛けて供養を行い、その後継者たちが、その道の精進を誓い合ったのである。和歌の道なら、柿本人麻呂の人麻呂影供(ひとまろえいぐ)がそれにあたる。人麻呂影供では人麻呂の御影を掛けて、供養が行われたのである。薬師寺では、この影供のあとに、食事が参会者に振舞われる。食を共にすることで、創建の昔に思いをはせるのである。つまり、薬師寺の「国忌」は、天武天皇のご遺徳を偲ぶ日なのである。

 さて、宮廷行事としての「国忌」の淵源は古く、その初出を『日本書紀』に求めることができる。天武天皇崩御の一周忌にあたる持統天皇元年(六八七)九月九日条に、

九月の壬戌(じんしゅつ)の朔にして庚午(かうご)に、国忌の斎(さい)を京師(みやこ)の諸寺に設(ま)く。

とある。これが以後年中行事化したと考えられ、平安時代においても、天皇は廃朝、諸司は廃務と決まっていた。すなわち、公務が行われないのである。さらに、楽をなすことが禁じられ、犯すものは杖刑に処せられるという規定が存在していた。つまり、「国忌」とは、国家が定めた特定の天皇、ないしそれに順ずる人びとの忌日であるということができるのである。大宝二年(七〇二)には、これに加えて天智天皇の「国忌」が加わることとなる(十二月三日)。以降、増え続け桓武天皇の時代には十六に及ぶようになる。その「国忌」の初見が、天武天皇であることは、興味深い。なぜならば、壬申の乱に勝利して、都を明日香に戻した天武天皇直系の皇子たちが、藤原京・平城京の時代を通じて即位し続けたことを考えると、天武天皇とその后・持統天皇に続く人びとにとって、天武天皇は「祖」とも仰ぐべき存在だったからである。つまり、天武天皇は、新王朝を開いた「皇祖」ともいうべき天皇だったのである。逆にいえば、「国忌」とは、単なる天皇の追善供養ではなく、先帝の遺徳を偲び、自らに繋がる歴史に思いをはせる日ということができる。とすれば、この「国忌」を通じて、皇統意識のごときものが形づくられたとみることもできるだろう。

 その天武天皇の葬礼は、二年余という長期に及ぶもので、それは殯宮(もがりのみや)で行われた。「殯」とは、死者を客としてもてなすことで、死者の埋葬をもって終わる儀礼である。かつて、筆者は、天武天皇の殯宮儀礼について、新生天武王朝の幕開けを飾る最初の政治イベントと称したことがあるが、それほど大きな意味のあるものであった。たとえば、当時整いつつあった律令諸官制の整備は、天武天皇の殯宮への拝礼によって、亡き天皇に報告されるかたちになっているのである。また、当時整備されつつあった正月儀礼も、それが宮廷において最初に行われたのは、天武天皇の殯宮であった可能性が極めて高いことが指摘されているのである。すなわち、天武天皇と続く持統天皇の時代は、宮廷におけるさまざまな儀礼が確立されていった時代であり、そのなかで「国忌」の制も整えられていったのである。

 さらに注意しなくてはならないことは、持統天皇元年(六八七)九月九日は、天武天皇は埋葬以前であり、その殯宮においてはさまざまな儀礼が行われていたことである。つまり、宮廷における殯宮儀礼と同時並行で、都の「諸寺」で追善供養が行われたのである。

 ところで、この天武天皇の殯宮儀礼がはじまるその日に、皇位継承争いに敗れ去った皇子がいる。それが、大津皇子である。現在、薬師寺で行われている「国忌」において、天武天皇、持統天皇のみならず大津皇子の供養がなされるのはそのためである。持統天皇は、草壁皇子(日並皇子)にどうしても皇位を継承させたかったのである。そういう理由で、死に追いやられた大津皇子を、薬師寺では手厚くお祀りしているのである。これは、「薬師寺縁起」の大津皇子伝承に基づくものであろうが、そこには敗れ去りし人びとをも祀ることによって、その加護を願う宗教心意が働いているのであろう。花会式においても、大津皇子は「大津聖霊」として大切に祀られている。

 こうしてみると、「御国忌」はまさに万葉歌人の影供なのであり、駆け出しの万葉学徒であった私に、故高田管長が「天武さんに、お参りに来なあかんで・・・」とお声を掛けて下さった意味がよくわかるのである。本稿を書きながら、あらためて我が愚を悟った次第である。

 非業の死者を追善することは、日本の宗教文化の特質の一つであると筆者は考えている。『万葉集』には、皇位継承争いに敗れ去った有間皇子(ありまのみこ)や大津皇子、さらには長屋王(ながやのおおきみ)の挽歌も多く収載されている。もちろん、事件の当時はそれらの人びとに哀悼の気持ちを表すことは憚られたであろうが、時が経つと日本人は彼我の区別なく、追善供養をするようになるのである。むしろ、非業の死者の怒りの気持ちを鎮め、逆にその力によって加護を求めようとする心意も存在するようである。これは、日本の宗教文化に受け継がれた伝統でもある。社会がグローバル化した今、こういった宗教文化の伝統を、文化摩擦の解消のために、海外に発信してゆく必要が出てきたようである。つまり、説明をしてゆく必要があるのである。もちろん、そういう発信をする前に、我々こそ先に学ぶ必要があるのだが・・・。


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