おもしろいにはじまり、おもしろいにおわる――論語
では、今なぜ、古典を読むのかと聞かれると、「おもしろいから」としか、答えられません。だから、わたしの場合、すべては「おもしろい」「たのしい」から出発して、そこがまたゴールになっています。でも、そんなことをいうと、他の多くの古典の先生から叱られるかなぁ、そういう読み方は、いけないのかなぁ、とも思いますが……な、なんと中国の古典中の古典、『論語』の冒頭には、こうあるんです。
孔子先生は、こういった。学んで、それをそのおりおりに心のなかで思いをめぐらせて考えをあたためてゆく、なんとうれいしことじゃないか。友だちが遠方からやってくる、なんとたのしいことじゃないか。人が自分のことを認めてくれなくても、腐ったりしない、それこそほんとの君子じゃないか。
(『論語』学而第一、拙訳)
→書き下し文 巻末掲載
『論語』は、学んでそれを自分で考えることの嬉しさとよろこび、友だちと語り合うことのたのしさを語った孔子の言葉からはじまるんですね。勉強して、自分で考え、友達と語り合う……それだよ、古典の学ぶことのたのしさは、と孔子がわたしに語りかけてくれているようです。おもしろいから読む、たのしいから学ぶ、それでいいとわたしは思います。何かの役に立つとか、人格が向上するとか、そんなことは二の次でしょう。だから、わたしは「古典おもしろ第一主義」でゆきます。虎の威を借りて、『論語』も冒頭でそう述べているぞ、おもしろくなきゃ、たのしくなきゃ、読む必要などないというわけです。
とすれば、古典の入門の授業で、先生がすべき仕事は……? それは、古典を読むことのおもしろさを全力で知らせることじゃあないでしょうか(しかし、それがじつに難しい。わたしも、悪戦苦闘の毎日を過ごしています)。
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