古典なんか死んだ人のカスみたいなもんだ――荘子
古典はおもしろいからわたしは読んでいるといいましたが、一方でその古典だってしょせんは過去に生きた人のカスやゴミみたいもので、何の価値もないという意見が、じつはあるんです。ところが、そう書いてあるのが、これまた中国の古典中の古典『荘子』だから、おもしろい。『荘子』外篇の天道第十三の一部分を、わたしなりに要約して、お伝えすることにします。題して、上野先生の古典劇場「お殿さまと扁じいさんの問答」のはじまり、はじまり!
あるとき、桓公というお殿さまが、表座敷で本を読んでいたとさ。その座敷の下では、車輪作りの職人の扁じいさんが、車輪にする木を削っていた。車輪作りの道具をおいて、表座敷に上った扁じいさんは、お殿さまにこう聞いたんじゃ。
扁 わたしのようなものがとも思いますが、敢えてお聞きしたいことがございます。お殿さんが読んでいらっしゃるのは、どなたのお言葉ですか?
殿 聖人さまのお言葉じゃよ。
扁 それで、その聖人さまとやらは今生きておいでなんですか?
殿 そりゃ、とうに亡くなっておられるさ。
扁 それじゃ、お殿さんが、読んでおられるものは、昔の人のカスみたいなもんで、なんの役にも立ちますまい……。
殿 この無礼者! 殿様である俺様が本を読んでいるのにだなぁ、お前のような一介の車輪作りの職人が、何を言う。申し開きができるならよし、さもなくば即無礼打ちじゃ。
扁 わたしめ扁は殿様の臣下の車輪職人、ですから車輪作りのことで考えてみます。まぁ、お聞きくださいまし。車輪というものは、削って作るのでございますが、これがゆっくり静かに削りますと、合わせ目がゆるくて、車輪はばらばらになってしまいます。よけいに削れてしまうんでございます。じゃあ、速く鋭く削ればよいかといえば、さにあらず。合わせ目がきつくて入らないのでございます。ゆるからず、きつからず、その削るときの速さや力加減いうものは、自分の手で覚えるしかないのでございまして、口では説明することができません。したがいまして、息子にすら、教えてやれません。というわけで、齢七十の年老いた今もなお、車輪を削っておるのでございます。わたしめは、これと同じだと思うんでございますよ。お殿さまがお読みになっている本のお偉い先生とやらも、死んだんでございましょ。そしたら、そのありがたい教えとやらも、伝えられるわけじゃない。その聖人さまも、その人の教えとやらも、ともに消えてなくなっているのでございますよ、とっくの昔に。だから、おそれながら、お殿さまのお読みになっているところのものは、まぁ昔の人の残したカスとしかいいようがないのでございます。(要約)
→原文書き下し文 巻末掲載
扁じいさんの主張はこうです。本を読め、古典を読めというけれど、それでほんとのことがわかるのかい。言葉で、すべてが伝えられるわけではないのだよ。だから、大切なことは、今生きている俺たちがどう考えるか、どう生きてゆくかということじゃないの?!
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