言葉の背後にある心を想像する
ここに、りんごがあるとしましょう。赤くて、甘いりんごです。しかも、みずみずしい。きっと、おいしいと思います。けれど、わたしが今、手元にあるりんごのことをどんなに一生懸命に説明しようとも、聞き手や読み手に伝えられることには限界があります。つまり、言葉はしょせん言葉でしかないのです。そのりんごを見て思った心情のすべてを、言葉で伝えることはできないのです。
恋だって、同じことです。胸を焦がす恋心だって、言葉で伝えられるのは、ごく一部です。日本において現存する最も古い歌集『万葉集』に、こんな歌が載っています。
口に出して言ってしまえば
「恋」なんてうすっぺらな言葉だよ……
でもね、アタイはね、忘れないよ、アンタのこと。
たとえ、恋に狂って、死んじまったとしてもね――
(巻十二の二九三九、拙訳)
→原文 巻末掲載
「恋といへば 薄(うす)きことなり 然(しか)れども 我(あれ)は忘れじ 恋(こ)ひは死ぬとも」(作者未詳 巻十二の二九三九、書き下し文)という歌です。ちょっと遊んで、不良少女風に訳してみました。口に出せば薄っぺらなことばになってしまう、わたしのあなたへの気持ちは言葉では伝えられないほどよ(それほど愛している)……と作者は歌っているのです。もし、この歌に感動したり、おもしろいなと思ったりした人がいたとすれば、それはこの歌の言葉の背後にある「心」を、読んだ人が想像したからです。言葉ではわたしの恋心を伝えることができない、という歌に共感するのは、読んだ人が、言葉の背後にあるものを「自分」で考え、想像したからです。読んだ「今」、その時に。
つまり、言葉の背後にある心とか心情とか呼ばれるものに思いをはせ、想像しないと、ほんとうに読んだことにはならないのです。だから、また語り手や書き手の方では、相手の想像力を刺激するような言葉を選ぶわけですね。
|