このページは、上野が2006年に発表した「おもしろ古典教室」の中から1節ずつ、
本編をホームページ上で楽しんでもらうためのページです。
1週間に1度、1章分(全11回)更新します。さあ、どうぞ。

おもしろ古典教室-10
 

再び『荘子』の言葉を

 先に、『荘子』という本に書いてある扁というおじいさんとお殿さまの問答を取り上げて、古典なんか読んでも何の役にも立たないよ、という考え方が存在することを示しました。そして、言葉というものはすべてを伝えられるわけではないので、言葉を手がかりにして考えたり、想像したりしないと、古典を学ぶ意味がないのでは……と話を進めてきました。じつは、『荘子』にはその問答の直前に、書物と、言葉と、言葉の背後にある意味や心情について、書かれた部分があります。数ある古典のなかでもわたしの好きな文章一つで、はじめて読んだときの記憶が今も鮮明に蘇ります。これも、二十歳のころでした。その部分を今あらためて、この新書のために自分で訳してみました。わたしの専門は、中国哲学ではないので、拙くて恥ずかしいかぎりですが……。わたしの古典への旅は、この文章からはじまったのです。何度、読み返してみても、やはり古典を学ぶ者にとって大切なことが書かれている、と思います。

 世の人は、生きる道を知るために、もっとも尊ぶべきものは本であると考えている。けれど、本というものは、単なる言葉に過ぎない。たしかに、言葉は尊ばれるべきものである。しかし、言葉が尊いのは、言葉の背後に意味があるからである。さらに意味の背後には心情がある。ところが、言葉の意味の背後にある心情は、言葉では伝えることができない。そうであるにも関わらず、世の人は、言葉を尊ぶので、それを書にして、伝えようとする。そのようなものは、たとえ世の人がどんなに尊んでいようとも、尊ぶべきものではない。それは、ほんとうに尊ぶべきものではないからだ。以上のことを踏まえて、考えてみよう。目で見ようとして見ることのできるものは形と色であり、耳で聴こうとして聴くことができるものは、物の名前と音でしかない。悲しいかな、世の人はこの形と色、名と音によって、言葉の意味の背後にある心情を知ることができる、と考えている。形・色・名・音をどんなに詳しく知ったからとて、言葉の意味の背後にある心情などわかるはずもない。というわけで、「言葉の背後にある意味、さらにその背後にある心情を知っている者は語ろうとはせず、語ろうとする者はそれを知らない」のである。そんなことすらもわからずに、世の人はどうして言葉の背後にある心情に迫ることができようか。できるはずがない。
(『荘子』外篇、天道第十三、拙訳)
→書き下し文 巻末掲載

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