幸田文『流れる』の映画化。芸者家業の業を描いた大作。たしかに、これは、女優のオールスターゲーム。山田五十鈴、栗島すみ子、田中絹代、杉村春子、岡田茉莉子。そして、キリリとした高峰秀子。自分は、映画の時代を生きたら、どんな生き方をしただろうかと思う。タイムスリップできた。
雑誌『日本文学』が、古代文学研究の50年を回顧する論文を書け、とのこと。考えてみれば、気分は若手でも60歳だから引き受けたがぁ……。やはり、上野は「今」「ここ」「私」がないと書けない。隣接分野との協同について、今の自分の研究を語る。そして、ちょっと辛口に学界時評。
桜井市の纏向学研究センターが10周年で、紀要が特集号とか。〆切は来年の夏だが、他の仕事の都合で先に書く。名誉なことだし、万葉学徒も少しは役に立たなくてはなるまい。なんとか書けた。晩夏の成果だ。
角川『地方の古代史』のエッセイ。笠金村と吉野で書く。5枚。内容は、吉野の宮滝遺跡のこと。
イザベル・ユペールと演技力とポルトガルの景色で、一本撮れるのかぁ、と思う。人はそれぞれに幸福だし、それぞれに不幸なのだ。ヨーロピァーンな映画。
水上瀧太郎『大阪の宿』を映画化した作品。映画は舞台を戦後にしている。1950年代の大阪の雰囲気や、乙羽信子の着物の捌きにうっとり。YouTubeで拾いものした。階級差、男女差でみな立ち居振る舞いが違う。
屏風岩。わが人生で、この場所にもう一度来れるか、わからない、と思わなくては。
二上山もそうだが、火山の隆起らしい。この山容は。
あの山から降りて来たのだ、と思いつつ下る。夕暮の道。
大きな椿を見つける。庭の木だ。
とぼとぼ歩き、一日を振り返る。
山と川と平地の間で千年単位で命をはぐくんで来たのだろう。日本は、山と川の国だ。
もう、秋かぁ……と写真を見ると思ってしまう。
植物相も、どこか違う感じ。
今度は、どんな鳥の羽根なのだろう。専門家ならわかるだろう。
下山道が二つわかれるところ。集落センターへ向かう。
三角点も。いよいよ、下山だ。下山も、じつにしんどい。よろよろだ。
山頂からの景色。向かいの山にロープを掛けて、渡りたい。
山頂だ。ここは、2回目。10年前もしんどかったが、今回もつらい。
ようやく8合目か。人生の希望が見えてきた。いや、人生の終焉――。
どんな鳥の羽根かわからないが、美しい――。ふと見れば。
これこそ、「岩が根 禁樹(さへき)おしなべ」てゆく道。
静寂の林間を進みます。いやぁ、たどりつけるかなぁ……。
いちばんつらいのは、3合目かなぁ。とにかく息が上がってしまう。
低山、夏山シリーズ。今日は、鎧岳に。
もう、夕ぐれだ。夕方は、秋の気配も。
ならシルクロード博。これは、竹下登内閣時代。博覧会にも、いろいろかかわってきた。あと藤原京ロマントピア、それに平城遷都1300年祭。
山道を歩く楽しみを60歳にして、知ったか。自分は、基本的に克己心のない人間なので、山登りはしないのだが。それなりに楽しんでいる。
麓に近づくと滝の音が……。みごとな滝がありました。
三角点も。
結局、体力的に登山下山の往復で5時間以内しか、不可能。それでいいのだ。
まるで、現代アート。すごい風が吹くところなのだろう。
低山趣味の私。気力、体力、準備も含めて、低山に限る。高山趣味は、親不孝です。
山頂の景色は、登山者へのごほうびか。もう汗だくだく。
ようやく山頂近くまで、行くことができた。この日は、時折、涼やかな風が吹いている。
こうして見ると、谷間の盆地に、日本の集落はあるとわかる。
久しぶりの山登りで、すでに足はよろよろ。
山を登りはじめて、20分でこの景色です。すでに高い! ここは。
高原の御杖村までゆくと、かなり涼しい。今日は三峰山登山だ。
読売新聞の紙面批評委員会の紙面化。やはり、上野の見方は、文学だと思った。「どう生きればよいか」ではなく、「生きるとはどういうことか」と考えてしまう。
スペイン王室の歴史とプラドのコレクションの歴史をたどりながら、スペインの美術を学ぶ。前近代の美術史は、宮廷史だということがわかる。
やはり、ハルカスは高い、ぞなもし。
コロナ禍で、会期も変更されたが、今回はゆっくり見ることができた。印象派誕生までの絵画史という感じ。
久しぶりのフランス絵画展。女性の肖像画がたくさん出ていた。行くと、やはりたのしい。絵や写真は、たしかに魂を盗むと思ってしまう。それは、その人物の人間性が絵から伝わってくるからだ。
来年四月刊をめざす小学館から出る文集の原稿書下ろし。元原稿はこんな感じで書いている。令和の『梅干しと日本刀』です。これから、修正稿作り。